こんにちは!malcoです。
今日は原爆の日なので、広島県民として思いを馳せてみようと思います。
8月6日は原爆の日です。
今日は小学校も中学校も登校日で、うちの子たちも学校に行きました。
他県の人たちの文化が分からないのですが、今どき夏休みに登校日なんてあるのかな。
広島では、毎年この日は登校日になっています。
私が育ったのは広島市外なのですが、確か小学校の頃は学校に行っていたと思います。
でも、中学生になると、部活の時にラジオで放送を聞いて黙祷をしていた記憶が…。
広島県内でも、地域によって違うのかもしれません。
うちの子たちはずっと広島市育ちなので、毎年登校しています。
今年は日曜だけど、どうなんだろ〜と思っていたら、やっぱり登校するんですね。
学校に行って、普通のお勉強をするんじゃないですよ。
平和学習をします。
私が小学生だった頃は、毎年のように原爆の映画やドキュメントを見ていた記憶があります。
けっこうトラウマになるような映像やシーンもあったので、年を追うごとに見るのが辛くなっていき、おかげで今でも戦争モノの映画はあまり見たくありません。
そういった経験のせいなのか、「戦争」という言葉も聞きたくないくらい戦争が嫌いになりました。
しかし学ばなければならないことだと思っています。
この時期になると思い出すのが、小学生の頃に数年間通っていた近所の書道教室の先生のこと。
この方は被爆者で、一度だけ被曝した時の話を聞かせていただいたことがあります。
先生が女学生の頃で、原爆投下の時は比治山(広島市街地に近い山)の近くにいたそうです。
山のおかげで助かったというのは原爆の話でよく聞くのですが、先生もその一人だったようです。
それでも爆風と音と光はものすごく、突然ピカッと外が光ったかと思ったら、すごい爆音と共に建物の窓ガラスが全て割れたとおっしゃっていました。
先生の頭と髪の毛はガラスの破片だらけになり、頭を振るとバラバラとガラスの破片が落ちてきたそうです。
先生の腕や肩には確か、その時に負った傷跡が残っていたと記憶してます。
何が起きたのか分からず、外に出てみたけれど、周囲の状況は一変していて、やはり何が起きたのか全然分からない。
先生自身も血だらけになっていたらしいのですが、そんなことは気ならないくらい、周囲の状況が悲惨だったようです。
ガラクタと、生きているのか死んでいるのか分からない人たち。
生きている人はうめき苦しみ、みんな水を求めていたとお話しされていました。
その後の話も少しされていたと思うのですが、覚えてないという…(ー ー;)
せっかく貴重な話を聞かせてもらったのに。
小さい頃だったので、うろ覚えなのが恐縮です。
しかし原爆投下直後のお話のインパクトは大きく、何十年経っても原爆の日を迎えるたびに先生のことを思い出します。
いつか平和記念式典に行ってみたいなと思いながら、今年で45歳になってしまいます。
なんだかんだで、行くとしたら老後になりそう…。
この日は平和公園周辺で交通規制されるので、近いようで遠いんですよね。
広島市では8時15分になると1分間のサイレンが鳴り、原爆死没者への追悼のために黙祷を捧げます。
私が働いていた頃は、街を行く通勤中の人たちも足を止めて黙祷しているのを見たものですが、最近はどうなんでしょうか。
ここ10年以上は、ほぼ家の中でテレビを見ながら黙祷を捧げています。
いつか式典に行けるといいな。
そして、戦争による争いが世界からなくなる日が来ますように。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。